複方毒掃丸

株式会社山崎帝國堂

 

●創業者山崎嘉太郎の活躍  
 創業者山崎嘉太郎は、慶応2年長野県上田に山崎林平の長男として生まれ、明治21年、東京市神田区花房町に売薬化粧品商・山崎帝國堂薬房を開きました。また嘉太郎は、銀行・広告会社等の経営にも参加しておりましたが、明治23年に長男嘉男が生まれ、25年にはその子の名前を付した商店を出すなど売薬化粧品商に本腰を入れ始めました。その後も、東京の支舗山崎太陽堂、大阪の支舗山崎兄弟商会や九州支舗と次々に拡張し、全国に多数の特約代理店を持っておりました。
 明治維新以後、多くの売薬が出ましたが、明治11年および19年の訓令の中で「医用の範囲」「新店舗の距離」他課税等の縛りが、一般用の売薬に大きな障害となっていました。嘉太郎は、東京の売薬の有力者安川、津村、高木、太田、喜谷、大木各氏等と共に明治30年代から大正15年にかけてこれらの改革に尽力し、法的な基礎を作り上げました。

 

●複方毒掃丸の生い立ち
 「ばい毒撲滅時期来る俊効偉大最新薬発見せり」これは、明治28年の新聞広告のキャッチフレーズです。すばらしい薬を発見したという当時の意気込みが臨場感を持って感じられます。創業時の複方毒掃丸の名称は、「腹内毒掃丸」=「どくさうじぐわん」です。名は体を表すのことば通り、文字そのものが「体内の病気の毒を掃除してくれる丸薬ですよ」と語っているように名付けられています。

 効能は、ばい毒・そう毒・し つ毒・りん毒・たい毒他多数で「1ケ月で全治保証の新薬」として売り出され、俗に「一月丸」=「ひとつきぐわん」とも呼ばれています。この処方の由来は、香川氏江州の香川家方の家伝薬「香川解毒剤」からのものといわれています。


●複方毒掃丸の変遷

 明治30年代からは、「毒掃丸」という名称で全国に大々的に売り出され、「毒掃丸」または「腹内毒掃丸」という2通りの名称が使われるようになりました。明治・大正・昭和にかけてこれらの名称のまま販売されていきます。当然のことながら効能も変わらず、その文字「毒掃」の意味するそのものの病名、ばい毒・そう毒・しつ毒・りん毒・たい毒他等でした。
 昭和20年代には、これらの効能はなくなり「複方毒掃丸」となります。この時点で、便秘・たい毒.腰痛・関節痛等という効能になりました。また、同時期に、「複方毒掃丸」の錠剤形で、より強力な「重症用毒掃丸」というものを作っています。 その効能は、胎毒・るいれき・動脈硬化・神経痛等です。また「糖衣錠毒掃丸S」という便秘薬も作りました。その後、再評価により「複方毒掃丸」 は、これまでの効能から瀉下薬基準に分類され、現在に至っています。

●古き名称を守って
 当社の「毒掃丸」の薬名は100年を越えました。 今日では、「毒」という文字自体が薬とは正反対側にあり、薬品名に付けることは不適切になっています。 しかしながら、江戸時代・明治時代を経て今日に至るまで「毒」という生命への危険から、身を守ろうとする気持ちはだれでも同じです。
 三種の神器から取り入れた当社の勾玉には、「猛虎ー声掃萬毒」との文言があります。 これは、勇猛な虎が「すべての毒」を一声で取り除いてくれるようにとの強い願いを込めたもので、このことからでも、当時「毒掃丸」と命名した創業者たちの「毒」の危険に対するまっすぐな気持ちを察することができます。
 この「毒掃丸」という古き名称を守り続けることで、生命を脅かす現代の「毒」を、新しい時代の新しい方法で解毒していかなければならないと考えます。 「毒掃丸」を昔も今も長く愛用して頂いている消費者の方々、取り扱って頂いている問屋・薬局等の皆様には、深く感謝しております。

 

●丸を製する技術の継承  
 中国・日本においては、古来から薬は丸めて作るもので、数千年に亘って行われ、現在に至っています。近年、欧米から導入された錠剤の技術は、瞬く間に丸を製する技術を駆逐し、現在の主流の剤形となってしまいました。 優れた技術を積極的に取り入れることはすばらしいことです。
 当社もドクソウガンシリーズとして、新ドクソウガンG、ドクソウガンE便秘薬、ドクソウガンミニ等の錠剤を作っておりますが、製造の主力はやはり「複方毒掃丸」です。 小さな丸薬は、飲む数が多いけれども、その飲む数の微調節が体に優しいことにつながるわけです。これは、たくさんの消費者 の方からの声でもあります。
 世界に誇る日本の伝統的製丸技術を、今後も守り続けていきたいと強く考えております。